HOME > -ふたたびのえん-「富士山の日(2月23日)朝搾り」一日限り、幻の日本酒を求めて

「富士山の日(2月23日)朝搾り」一日限り、幻の日本酒を求めて ―高嶋酒造―

日本一の山、富士山がもたらす自然の恩恵に感謝しながら、丹精して酒を醸す小さな蔵がある。『N Drive ふじのたから』で取材にうかがった高嶋酒造だ。切れ味が良く、米の旨みがしっかりと引き立つ。頑固さすら感じさせる、その潔い味わいを一度口にした瞬間から、忘れられない酒となった。

そんな高嶋酒造で若き当主として、また杜氏として蔵を束ねるのが高嶋一孝さん。「地域おこしの近道は自分自身が発信塔になること」と日本酒を通して静岡に元気をもたらし続ける一孝さんが、「2月23日=富士山の日」にユニークなイベントを行うと聞き、再び取材に訪れた。

「富士山の日 朝搾り」に集まった酒販店や飲食店の店主ら

酒を通じて地域のオピニオンリーダーに

一孝さんが、醸し人として重きを置いている使命、それは「日本酒を通じて地域の魅力を発信すること」。「ローカルならではのエネルギーを伝えるには、オピニオンリーダーが必要だと思うんです。志のある飲食店さんや、酒本来の旨さ、酒に込められた思いを理解してくださる酒販店さんと手を取り合いながら、自分も地域を盛り上げる役割の一端を担えたら…」と語る一孝さん。

そんな思いを象徴するのが「富士山の日 朝搾り」だ。今年で3年目となったこの行事は、静岡県が制定した2月23日(ふ・じ・さん)「富士山の日」にちなみ、2月23日に搾りから瓶詰め、発送までを行い、その日の内に搾りたての白隠正宗を飲み手の元に届けて味わってもらおうという企画。2月23日の午前0時を回ると、発送時間から逆算して、荷積みのリミットとなる朝5時を目がけて蔵の中では搾り作業が始まる。日本酒では気温や発酵具合などを観察しながら、もろみの熟成具合が最高の状態に達した時を見極めて搾るのが通例。しかし「富士山の日」の白隠正宗は、この日のわずか数時間という限られた時間内にピンポイントで搾ることが必須条件となるため、思い描いた味わいに仕上げるのは至難の業なのだ。

まだ夜が明けきらぬ朝5時。蔵には酒販店や飲食店の店主らが続々と集まる。初開催となった2011年、わずか10数名から始まった富士山の日の集いは、今年50名近くに増えた。当初は静岡の酒販店や飲食店だけで行っていたが、評判を聞きつけた名古屋や山梨の酒販店も参加。中には東京で店を構える居酒屋の店主も駆けつけていた。「ただ、1トン仕込み1本限定なのでこれ以上は増やせないと思います。今日集まってくださっている方々は、本当に熱心に白隠正宗を愛して販売してくださるお店ばかりなので、その期待に応え続けることが僕の責務。このイベントも、蔵自体も、規模を広げずに、長く続けていきたいですね」と一孝さん。

集まった面々は、テーブルに置かれた利き酒用猪口に酒を注ぎ、口に含んで香りと味わいを試す。「昨年よりキレがある」「少し辛味が強い」「刺身に合いそう」など様々な意見が飛び出す。一孝さんとは旧知の仲であり、高嶋酒造の酒に絶大な信頼を寄せる静岡市の居酒屋「和み料理と酒肴 うず」の店主・吉村健哉さんは、「富士山の日 朝搾り」に初年度から参加している一人。「年々クオリティが高くなっていると思います。もちろんバラつきはありますが、今日飲むことに意味があるので、年による味わいの違いも楽しみの一つですね」と語る。同じ工程であっても気温、湿度、時間など様々な条件が酒に反映され、人の手で造るからこそのわずかな違いが味を大きく左右する。酒は生き物なのだということを実感させる、「富士山の日 朝搾り」はまさにそんな酒なのだ。

イベントに集まった参加者

志を届けるこの日限りの富士の酒

5時30分頃。蔵の敷地にある社に神主が到着すると、厳かな雰囲気の中でお祓いが行われ、富士山の恵みに感謝しながら酒を清める。その後、瓶詰めされたばかりの「富士山の日 朝搾り」の出来栄えが一孝さんより発表された。「誉富士純米生原酒。スペックはプラス3(日本酒度)、アルコール度17.3度。酸度1.3、誉富士使用で精米歩合は60%です」。初めての挑戦となった一年目は、やや辛めの仕上がりだったとか。「この日に照準を合わせるためには、もろみの温度調整が鍵。年々コツがつかめてきました」と一孝さん。その後、参加者全員で協力しながらラベル貼り、箱詰め作業、出荷準備が進められ、午前7時過ぎには発送体制が整った。ちなみにこの日搾られたのは、一升瓶638本、四合瓶712本分。完全予約販売で、この日、高嶋酒造に集まった酒販店と飲食店でしか出会うことができない“幻の酒”なのだ。

しっかりと朝日が顔を見せた頃、蔵の女性陣によって用意された温かい豚汁とおにぎりがテーブルに並べられ、参加者全員で朝食タイム。各テーブルでは今年の酒の出来具合や、同業者ならではの情報交換が行われていた。午前8時頃、朝食を終えると、遠方の店から「朝搾り」を自動車の荷台に積み込み、順に出発。「白隠正宗 朝搾り」は、各店へと旅立って行った。

昨年に引き続き2回目の参加となり、一番出発となったのは、名古屋から駆けつけた「酒のなかや」さんご夫婦。「昨年、たまたまブログを拝見していて絶対に行きたい!と思って申し込みました。名古屋で楽しみに待っているお客様に早く届けたいですね」と奥様の神谷登志江さん。

日本酒を愛する人々の志と情熱を詰め込み、この記念すべき日に醸された一本。きっと、富士山談義を弾ませるという静岡・富士山PRの大役を果たし、多くの人に幸福なひとときを届けたことだろう。

平成二十五年 富士山の日朝搾り

富士の霊水が生む渾身の酒

高嶋酒造では、長い歳月をかけて大地でろ過された富士山の雪解け水を地下150メートルから汲み上げて日本酒を仕込む。

文化元年(1804年)創業の歴史ある蔵の主、高嶋一孝さんは「地酒は最高のコミュニケーションツール」という理念を酒に込めて届けるために、米は和釜蒸し、蓋麹法による製麹(せいきく)、槽(ふな)しぼりなど昔ながらの製法で、丁寧な酒造りを貫く。

一孝さんが当主に就いた10年程前、日本各地で古くから飲み継がれてきた地酒は、岐路に立たされていた。都会の市場に迎合して呑みやすさばかりを求めるあまり、土地ごと、蔵ごとの特色は排除され、必要以上に香り高い日本酒ばかりがもてはやされた。日本酒の未来に危機感を覚えた一孝さんがまず着手したのは「選択と集中」。広い敷地も、大きな機械も、たくさんの人手もない。小さな蔵が質の高い酒を造るには、一本一本、一滴一滴に精魂を込めることしかないという思いの下、普通酒を全廃し、銘柄を厳選。高嶋酒造の伝統的な銘柄「白隠正宗」のみに照準を絞り、手造りの酒にすべての情熱と力を注ぎ込むことを決意した。

さらに「地酒本来の姿は、気候、食文化などと影響し合いながら、地域に根付いた酒であること」という思いを形にするため、高嶋酒造では静岡産の酒米「誉富士」と静岡酵母を使った「白隠正宗 誉富士純米酒」を醸造。富士山の伏流水と、地元で育まれた米を使い、静岡人の手によって醸されるまさにオール静岡産の一本は、日本酒通の間でも評判となり、専門誌もこぞって取り上げるなど話題を呼んでいる。さらに「人をつなぎ、思い出を作るツールになってほしい」と、高嶋酒造では1~2ヶ月に1回、季節に合わせた限定酒や遊び心溢れるポップなラベルの酒などを販売し、地域の酒販店が売りやすいようにと話題性のある酒を送り込む。その陰には、蔵と飲み手をつないでくれる酒販店への感謝の気持ちと、日本酒と共に過ごす日常の楽しさを一人でも多くの人に知ってほしいという願いが込められているのだ。

平成二十五年 富士山の日朝搾り

蔵人の思いを届ける手造りの一本

気温の低さが鍵を握ると言われる酒造りにおいて、温暖な沼津の気候は、時に蔵人たちを苦しめる。日が昇る前に重要な工程を終えなければならないため、仕込みの時期には朝4時から釜に火を入れ、5時30分頃には米が蒸し上がるように忙しなく作業が続く。その後は、寝る間も惜しんで酒の世話が始まるのだ。わずかな温度や湿度の変化にも気を配り、神経を研ぎ澄まして発酵具合に一喜一憂する日々。ようやく熟成されたもろみは、機械を使わない槽(ふな)搾りで酒袋に詰められ、何段にも積み上げて上から圧力をかけるため、手間と時間と人手を要する。こうして、蔵人たちの愛情たっぷりに育てられた一本は、一孝さんの奥様が手書きするラベルを纏ってようやく完成。「思い入れのあるものだから、造り手の思いを汲んだ一本にしたい」という一孝さんと蔵人たちの苦労の結晶だ。
高嶋酒造 高嶋一孝さん

酒マニアではなく、酒好きを増やしたい

「上質なコミュニケーションツールであり、郷土の食文化にしっかりと息づく日本酒の魅力を最大限に伝えたい」―。その強い信念に突き動かされるように、労を惜しまず酒と対峙しながら、次から次へとオリジナリティ遊び心溢れる発想で日本酒の可能性を広げる一孝さん。 「潜在的な酒好きはまだいるはず。酒マニアではなく酒好きに響く酒を届けたい。お酒の味は会話、空気、料理などあらゆる条件が合わさって記憶に刻まれるものです。楽しく、粋に飲んでくれる人が増えたら嬉しいですね」。若き醸し人の挑戦はまだまだ続く。

高嶋酒造 高嶋一孝さん

“上質なコミュニケーションツール”になる日本酒を発信

網元兼酒蔵として、文化元年(1804)年に創業した高嶋酒造。一孝さんは東京農業大学醸造学科卒業後、24歳で代表に。当時、東京を中心にブームとなっていた、香りばかりが際立つ画一的な味の地酒がもてはやされる状況に危機感を抱き、独自のアイデアで酒本来の味わい方、楽しみ方を発信。5年前からは杜氏となり、斬新なラベルの限定酒や地元の食とのコラボレーションを提案するイベントなど、人をつなぎ、思い出作りのツールとなる日本酒の魅力を広め続けている。

◎text by 花野静恵 ◎photo by 佐藤日出夫